※記事中の組織名、拠点名、部署名などは記事公開当時のものです。
長野県松本市には、「平成の名水百選」に選ばれた「まつもと城下町湧水群」があります。
この湧水群は周囲の山々が育んだ水が湧き出す自然の恵み豊かな場所です。湧水は古くから飲み水や酒造りにも利用され、市民の方々が町会などを通じて大切に守り続けてきました。
市街地に散在する湧水は、市民や観光客の憩いの場としても親しまれています。
今回は、この湧水を利用して発電を行い、その電力を活用して水温を監視する事に成功し、論文を発表された3名の研究者の方にお話を伺いました。
産総研 物理計測標準研究部門 応用電気標準研究グループ付 天谷氏
産総研 地圏資源環境研究部門 上級主任研究員 井川氏
茨城大学 工学部 都市システム工学科 助教 一ノ瀬氏
日付 | 2024年7月23日 |
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訪問先 | 産総研(産業技術総合研究所) |
使用機器 | TR42A |
使用目的 | 湧水の温度測定 |
産総研は日本最大級の研究機関であり、全国12拠点にわたり1万人以上の人員が研究開発活動に従事しています。今回はその拠点の一つである茨城県つくば市の施設にお伺いしました。
湧水を利用した発電と言っても、今回論文で発表された発電方法は一般的にイメージされる水車を回す水力発電ではありません。湧水と外気温の温度差を利用した「湧水温度差発電」という革新的な方法です。
湧水温度差発電とはどういったものか教えてください。
天谷氏
温度差を電気に変換するという発想自体は古くからあり、19世紀にその原理が発見されました。
20世紀には、化合物半導体を利用すると発電効率が飛躍的に向上することが確認され、人工衛星など、極地で電源を確保する用途としての開発が進みました。
発電に使用される熱電発電材料は、温度差と電気を相互に変換する特性があり、電気を温度差に変換する例としては、局所的な冷却を行う温度制御用としてペルチェモジュールが使われ始めました。
私の専門は、電圧や電流などの物理量を精密に測定する計量標準という分野です。その経験を活かし、温度差を電気に変換する際の変換効率を正確に把握し、効率を向上させる方法を研究してきました。
発電効率を高めるためには熱源に接する面を曲面形状にして密着性を向上させたり、温度差を確保するために放熱板の面積を増やす目的で円筒形の発電ユニットを設計するなど、形状の工夫が重要でした。また、変換効率を1%でも高める為に新しい熱電発電材料の研究に取り組む研究者たちも所内におり、基礎的な研究を積み重ねてきました。
これまでにも、発電効率を精密に計測し、それを高めるための研究成果を発表してきましたが、研究の仕事はどうしても一般社会から遠い存在になる傾向があります。この技術をどのように活用し、実社会に結び付けて役立てたら良いか、常に悩んできました。
井川氏
研究者は新しい発表をすることが目的になりがちで、論文を書いたらそれで終わりということも少なくありません。しかし、今回はその先を見据え、この成果をどう生かすかに重点を置いたことが良かったのだと思います。
具体的な例を通じて可能性を示すことができれば、それが社会に広がっていく大きなきっかけになると考えています。
ここからどのように湧水を活用するアイデアにつながるのですか。
天谷氏
長野県松本市で毎年開催される「工芸の五月」というイベントがあるのですが、妻がそのイベントの企画に関わっていたことが湧水を活用する大きなきっかけとなりました。
今回の論文の執筆者のうち、天谷氏と一ノ瀬氏は、研究のパートナーであると同時に、人生のパートナーでもあります。
一ノ瀬氏
「工芸の五月」において、松本市のまちづくりの一環として湧水の活用を検討していました。「井戸端会議」という言葉が示すように、古来より湧水は人々が集まり語り合う場として重要な役割を果たしてきました。しかし、時代の変遷とともに多くの井戸が姿を消していく中で、松本の湧水は今なお大切に守り続けられています。
そこで、工芸の街・松本を巡るきっかけとして、街中に散在する湧水を活用し、人々の興味を引きつけ、新たな街巡りのストーリーを描けないかと模索していました。
天谷氏
彼女(一ノ瀬氏)と松本や湧水について会話を重ねる中で、松本の湧水が年間を通じて常に15℃に保たれていることを知りました。その時、湧水と気温との間に大きな温度差があるのではと気づきました。これまでの自分の研究と彼女が模索していた湧水の活用を組み合わせることで、新たな価値を創出できるのではないかという期待が膨らみ、モチベーションが一気に高まりました。
ところが私は湧水や地下水に詳しくなかったので、地質や湧水が専門分野である井川さんにその知識を尋ねることにしました。
井川氏
そうですね。そもそも湧水の温度がなぜ一定なのか、どのような場所で湧水が湧き出るのか、さらには水温以外にどんな項目で水質を測定するのか、といったことを天谷さんと話し合いました。こうした基礎的な疑問が解消されることで、湧水に対する理解が深まり、研究の方向性も一層明確になったように感じています。
論文には、湧水の温度が15℃に保たれていることと共に、四季による外気温の変化が発電量にどのように影響するかが記されています。その中で、冬季の発電量が最も大きかったことが報告されています。確かに松本の冬は気温が氷点下の日が多く、湧水との温度差が大きいことからもその結果は納得できます。氷点下でも湧水は凍ることなく15℃を維持していることがこの差を生み出しています。
発電した電力の活用方法はどのように生まれたのでしょうか。
一ノ瀬氏
松本市での活動の一環として工芸の街としての魅力を探る中で、建築も工芸の一分野と捉え、職人技が光る蔵の街ならではの「なまこ壁」や歴史的建築物が数多く残る城下町を建築家の視点から見つめ直す取り組みも行っていました。その中でも特に株式会社山田建築設計室の山田先生とは10年以上にわたるお付き合いがありました。
ある時、松本で活動している建築家の皆さんと「湧水を使った発電で何か面白いことができないか」と話し合っていた際、まずは湧水に関連した応用例を考えようという方向性にたどり着き、それならば水質の基本項目である水温を測定してみようという発想に至りました。その時、山田先生が「温度測定という分野であれば」と、「おんどとり」とT&Dさんを提案してくださいました。このご提案が、プロジェクトを大きく前進させるきっかけとなりました。
実は、山田先生はT&Dの松本市にある社屋(松本Base)の設計を手掛けられ、そのご縁で社内行事にもたびたび参加してくださっています。
天谷氏
このような経緯から山田先生のご紹介で「おんどとり」を使うことができないかT&Dさんに相談する事になりました。
実は産総研では、実験室の温度管理のためにT&Dさんの測定器を活用していたことがあり、「おんどとり」を以前から知っていました。しかし、それがまさか松本で作られているとは知らず、大変驚きました。
T&Dさんには、省電力でバッテリー駆動の「おんどとり」をご紹介いただいただけでなく、通常の電池とは異なり、起動時に大きな電流を流すことが難しい温度差発電の課題を克服するアイデアをご提案いただきました。さらに、実際に電源回路を試作していただき、大変感謝しております。
湧水温度差発電の実験でご苦労はありましたか?
天谷氏
T&Dさんのご協力のおかげで、通常はリチウム電池で動作する「おんどとり」が、湧水温度差発電の電力のみで見事に稼働し、スマートフォンで湧水の温度を確認できるようになりました。これは、提案いただいた電源回路のアイデアと「おんどとり」の低消費電力性能がもたらした成果だと感じています。
しかし、実際にフィールドで実験を行うには多くの課題がありました。湧水を使った実験場所を見つけることから、松本市や地元住民の皆さんとの調整まで、私にとっては専門外の作業ばかりで苦労もありました。その中で、妻が10年以上かけて築いてきた松本の方々との人脈が非常に頼りになりました。
その甲斐もあり、単に発電するだけでなく、その先の実用例として湧水の温度を測定し、それをわかりやすい形で示せたことが大きな成果を生みました。技術そのものを強調するのではなく、技術と実社会を結びつけることで人々により身近に感じてもらえたのだと思います。その結果、この研究に対して報道機関や企業からの問い合わせが急増し、反響も大きなものとなりました。
湧水温度差発電の今後の展開はいかがでしょうか?
井川氏
今回は湧水の温度を測定しましたが、今後は水質や水位など他の要素も測定してみたいと考えています。また、温度差があれば発電が可能なので、身近な環境で温度差が生じるものを探し出し、新たな発電の可能性を見つけていきたいですね。
一ノ瀬氏
湧水を利用した発電は決して大きな電力を生み出すわけではありませんが、その穏やかな流れから生み出されるエネルギーを実感することで、人々が井戸を大切にする気持ちが高まるきっかけになればと願っています。また、実用性だけでなく、水車が里山の風景として評価されるように、湧水温度差発電が湧水や井戸を未来につなげ、人々の心の豊かさを育む存在になればいいと考えています。
さらに、湧水を観光資源として活用するアイデアとして、湧水で発電した電力によりその観光情報などをBluetoothのビーコンで送信し、それをスマートフォンで受信して数々の湧水を巡る体験を提供することも視野に入れています。
天谷氏
日本国内に限らず世界に目を向ければ、松本以上に温度差が大きく、発電に適した地域があるのではないかと考えています。そういった場所でも実験を行ってみたいと思っています。また、各種センサーを接続するために、電圧や電流を測定できる機器があると非常に役立つと考えています。
今後、「おんどとり」に期待する事はありますか?
天谷氏
現在使用している「おんどとり」ですが、電源が切れると記録したデータが消失してしまうため、データが保持される仕組みがあると非常に助かります。
また、起動時には大きな電力が必要となるため、電源が落ちてしまった場合、気温と湧水の温度差が十分に大きくなるまで再起動できないことが課題です。起動時の消費電力をさらに抑えられると、非常にありがたいです。
――貴重な意見をありがとうございます。今後の製品作りに生かしていきたいと思います。
本日はお話を聞かせていただきありがとうございました。
取材を通じて、「湧水温度差発電」という研究成果は、天谷氏の温度差発電に関する研究、一ノ瀬氏の松本市での人や風景・湧水との繋がり、そして井川氏の地質や湧水に関する深い見識といった、一見異なる分野の研究成果が一つの線で結ばれたことで生まれたことを知りました。
さらに、この研究は単なる技術的な側面にとどまらず、人々が湧水や井戸の価値を再認識し、新たな形の「井戸端」として街づくりに取り入れられるきっかけとなっています。これらのプロセスにおいて「おんどとり」をご活用いただいたことに、心から感謝申し上げます。
――産総研には日本の温度測定の基準とも言える高度な標準機を備えた校正施設があります。「湧水温度差発電」の取材を終えた後、この校正施設をご案内いただきました。
産総研 物理計測標準研究部門 研究グループ長 小倉氏
産総研 物理計測標準研究部門 主任研究員 斉藤氏
産総研 物理計測標準研究部門 研究員 小野氏
斉藤氏
国際的な温度の標準として、1990年に決められた国際温度目盛というものがあります。
厳密には、温度というのは熱力学温度(物理法則に基づいて測定した温度)によって定まるものですが、その測定は1点あたり1ヶ月かかるくらい大変なものであるため、熱力学温度に近似したものとして、この国際温度目盛が作られました。
これは、物質の状態(固体・液体・気体)が変化している間は温度が一定となる現象を利用していて、その時の温度を「〇〇 ℃である」と決めた目盛りです。
一番重要な温度の基準点は水の三重点で、水の三重点セル(水、氷、水蒸気が共存したセル)を用います。この点は安定性および再現性に優れた定点で、数十μK程度で安定・再現します。
しかし水の三重点セルを用いた測定には、水を封じているガラスの成分が溶け出してきたり、水の同位体の組成比が一定でなかったりするという問題点がありました。
そこで、物に依存するような定義は良くないとされて、2019年に「熱力学温度の単位の定義」がボルツマン定数(基礎物理定数の一つ。条件によらず一定の値をもつ)を厳密に規定した定義に移行しました。
小倉氏
「熱力学温度の単位の定義」は2019年に変わったものの、我々は今まで通り、国際温度目盛に基づいて温度標準を供給しています。そのため、ユーザー側には今のところ影響は出ていないはずです。
しかし今後、国際温度目盛がこの定義変更に沿って変わった時には、温度値が今までと違ってくるなどの影響がユーザー側にも出てくるかもしれません。
斉藤氏
熱力学温度と国際温度目盛で実現した温度を比較すると、国際温度目盛は完全な近似にはなっていないということが分かってきました。これを受けて国際温度目盛を今後改訂するのか?ということが議論されております。
特に室温付近では数mKズレていることが分かっていて、これは長さ計測などに関わってくるため影響が大きいとされています。
――その他にも、実際の温度計や測定装置も見せていただき、温度計測に関する理解を深めることができました。
今回のインタビューにご協力いただいた、天谷氏、井川氏、一ノ瀬氏、校正施設を紹介して下さった小倉氏、斉藤氏、小野氏と産業技術総合研究所様に感謝申し上げます。
本来、電池寿命を延ばすために省電力で動作するように作られた「おんどとり」が、湧水温度差発電の限られた電力を活用する研究にも貢献できたことを大変うれしく思います。